Last Updated on 2024年5月2日 by Yuma Yasui

近年、気候変動は経済リスクとして認識されており、企業はTCFD提言に基づく気候変動の財務的影響を算定し、投資家に示すことが求められています。しかし、企業の気候変動リスクの中でも、特に気候変動の進行が農作物などの原材料調達に与える物理的リスクについての定量的な開示は限定的です。


本記事では、農産物などの物理的リスクを定量的に分析し開示を行う企業の開示事例を解説いたします。

TCFD提言の基本を理解する、「TCFD開示入門編:WP」
⇒資料をダウンロードする

気候変動が原材料調達に与える一般的な影響

原材料調達に関して、気温の上昇による農地面積の減少や異常気象の頻発による生産量の減少などのマイナスの影響を及ぼす懸念が一般に知られています。

例えば、IPCC4次評価報告書WG2によれば、北ヨーロッパでは、気候変化により、暖房需要の減少、農産物生産量の増加、森林成長の増加が見られるが、気候変化が継続すると、冬期の洪水、生態系危機、土壌安定性減少による悪影響が便益を上回ることがわかっています。

定量的評価の意義

TCFD提言は、気候変動に関わる事象が企業に及ぼし得る影響について、厳密な定性的評価を求めており、また適切と思われる場合は、定量的評価を実施すべきと要請しています。

財務報告において気候リスクを定量的に捉えることで、企業は、特定の資産に関するデータを掘り下げて、自社のビジネスモデルにとっての気候変動によるリスク要因がどこにあるかを発見することができます。
それは、将来の財務的損失から企業を守り、事業の中断や異常気象による損害の回避に役立ちます。なお、定性的評価は、その良い出発点になります。

シナリオ分析における財務影響評価方法については、シナリオ分析における「財務影響算定」とは?具体的な手順を解説〈シナリオ分析解説シリーズ〉Part3 – リクロマ株式会社を参照ください。

TCFD提言の基本を理解する、「TCFD開示入門編:WP」
⇒資料をダウンロードする

4社の開示事例比較

では、物理リスク、特に気候変動の進行が農作物などの原材料調達に与える影響についての定量的な開示について、2023年現在におけるキリンホールディングス伊藤園日清食品セブン&アイホールディングスの開示事例見ていきましょう。

キリン伊藤園日清食品セブン&アイ
対象農産物大麦、ホップ、紅茶葉、ブドウ果汁、でんぷん、乳糖、トウモロコシ、キャッサバ緑茶、大麦、コーヒー小麦、大豆、エビ、イカ、パーム油米、海苔、畜産物(牛肉・豚肉・鶏肉・卵)
気候変動による主要農産物収量の影響定量的定量的【小麦、大豆】定量的
【エビ、イカ】定量的
【パーム油】定性的
記載なし
収量減による財務影響定量的(2050年度の2℃シナリオ、4℃シナリオに基づく調達コスト)定性的定性的定量的(気候変動により収量が低下した場合の2030年度の原価上昇額)
収量予測年度2050年または2100年【緑茶】
記載なし
【コーヒー豆】2030年および2050年
【大麦】
2050年
【小麦、大豆】
2050年および2100年まで
【エビ、イカ】
2050年および2100年まで
【パーム油】
記載なし
2030年
利用シナリオIPCCなどの温度シナリオ(RCP)と社会経済シナリオ(SSP)を組み合わせたグループシナリオ
2℃または1.5℃シナリオ(主にSSP1、RCP2.6)4℃シナリオ(は主にSSP3、RCP8.5)
【緑茶】RCP2.6(1.5℃シナリオ)、RCP4.5(2℃シナリオ)、RCP6.0、RCP8.5(4℃シナリオ)
※IPCC第5次評価報告書に基づく
【コーヒー豆】
RCP4.5(2℃シナリオ)、RCP8.5(4℃シナリオ)
【大麦】RCP2.6(1.5℃シナリオ)、RCP8.5(4℃シナリオ)※IPCC第6次報告書に基づく
RCPとSSPを用いた複数のシナリオ
【小麦、大豆】
RCP2.6, SSP1(1度前後シナリオ)RCP6.0, SSP2(2℃シナリオ)RCP8.5, SSP3(4℃シナリオ)
【エビ、イカ】RCP2.6RCP8.5
【パーム油】RCP2.6RCP8.5
IEA、政府や国際機関が発行した将来予測に関するレポートなどを参考に、セブン&アイグループが設定した温暖化進行シナリオ(2.7℃~4℃)
※算定に用いた具体的シナリオの記載はなし
良い点・シナリオ分析による算出した影響推定値の不確実性を踏まえつつ、なおシナリオを使用したレジリエンス評価の有用性を述べていること
・年度ごとに調査を追加実施していること
・毎年最新の学術論文を参照し情報をリバイスしていること
・年度ごとに調査を追加実施していること(定性的)・パーム油に関してデータが不足していることに言及していること
・定性的分析で収穫量の減少が考えられるパーム油に関し、収量減に伴う財政的影響の分析を今後行っていくことに言及していること
・仕入金額の構成をもとに対象産物を算定していること
                       4社の開示事例比較表 弊社にて作成

キリングループ 

参照 環境報告書 | IRライブラリ | キリンホールディングス
キリングループは、物理的リスク評価において、気候変動による主要農産物収量の影響収量減による財務影響の算定を概ね定量的に行っています。今回比較した中で双方を定量的に行っている企業は、キリングループのみとなりました。

環境報告書2023年度版p.78より引用


キリンホールディングスは、環境省および一般財団法人地球・人間環境フォーラムが主催する「環境コミュニケーション大賞」の「気候変動報告大賞(環境大臣賞)」を受賞した経験があり、優良な先進事例として注目に値します。

物理的リスク(農産物)の評価結果

さまざまなシナリオにより異なる予想が存在するものの、気候変動の対策を十分行わない場合には、2050年(一部は2100年)の段階では主要な原料農産物に大きな影響は避けられないと判断しています。

様々なシナリオによる異なる予想例:
・ドイツ環境・自然保護・建設・原子炉安全省が実施したシナリオ分析→エルベ川流域で気温が1.4°C上昇し年間降水量が10%減少した場合、2055年までに大麦の収量が9~14%減少することが予測
・国際連合食糧農業機関(FAO)のシナリオ分析→4°Cシナリオで2012年に比較して2050年までに収量が17~18%増加すると予測

環境報告書2023年度版p.23より引用 

利用している科学的根拠

農作物のシナリオ分析の際に、以下の学術論文と他複数の論文を参照して調査・分析を行っています。
※各企業の開示情報をそのまま引用しています。
・Decreases in global beer supply due to extreme drought and heat, Nature Plants, VOL.4, NOVEMBER 2018, 964–973( Xie, etal. )
Xieらの経済モデルを用いた研究成果に示される国別のビールの基準価格の記載あり
・IPCC(2019)Climate Change and Land: an IPCC special report on climate change, desertification, land degradation, sustainable land management, food security, and greenhouse gas fluxes in terrestrial ecosystems Chapter 5: Food Security
・Risk of increased food insecurity under stringent global climate change mitigation policy. Nature Climate Change,volume 8, pages 699–703(Hasegawa T, Fujimori S, HavlíkP, Valin H, BodirskyBL, DoelmanJC, FellmannT, Kyle P et al. 2018)
IPCCの「土地関係特別報告書(SRCCL)」で取り上げられた Hasegawaらの研究成果
・Zebish et al (2005)“Climate Change in Germany Vulnerability and Adaptation of climate sensitive Sectors”  FAO“Food and agriculture projections to 2050” 

農産物の温暖化による価格や、炭素税の影響の科学的根拠としては以下を利用しています。
・IPCC(2019)Climate Change and Land: an IPCC special report on climate change, desertification, land degradation, sustainable land management, food security, and greenhouse gas fluxes in terrestrial ecosystems Chapter 5: Food Security 
・Risk of increased food insecurity under stringent global climate change mitigation policy. Nature Climate Change,volume 8, pages 699–703(Hasegawa T, Fujimori S, HavlíkP, Valin H, BodirskyBL, DoelmanJC, FellmannT, Kyle P et al. 2018)

伊藤園

参照 TCFD提言に沿った情報開示 · 伊藤園
伊藤園は、物理的リスク評価において、気候変動による主要農産物収量の影響を概ね定量的に、収量減による財務影響の算定定性的に行っています。

物理的リスク(農産物)の評価結果

【茶】
〈2020年度〉

産地によって変動はあるものの、各シナリオ(RCP2.6、RCP4.5、RCP6.0、RCP8.5)で茶葉の収穫量が増加すると分析しています。一方で、様々な研究論文や文献等から、外来病害虫・疾病誘発菌が北上し、茶樹の生育や品質に悪影響を与えるリスクがあり、中期的に大きな影響があると判断しています。
〈2021年度〉
気候変動による茶の収量や品質については、暖かい気候を好む茶の性質上、大幅な減収や品質への影響は想定されていない一方で、地域別に収量の減少につながる可能性があると分析しています。

【コーヒー豆、大麦】
特に4℃シナリオにおいて大幅に収量が減少する可能性があり、中期的に大きな影響があると判断しています。

利用している科学的根拠

※各企業の開示情報をそのまま引用しています。
【茶】
〈2020年度〉
・Aqua Crop modelFAO(国際連合食糧農業機関)が、気候/土壌などの環境条件や栽培管理条件が、農作物の生産性に与える影響を評価するために開発した作物成長モデル〈2021年度〉
・農林水産省農林水産技術会議事務局(2016) 「気候変動に対応した循環型食料生産等の確立のためのプロジェクト」
・パシフィックコンサルタンツ株式会社(2020)「平成31年度地域適応コンソーシアム関東地域事業委託業務報告書」


【コーヒー豆】
・Tavares, P.d.S., Giarolla, A., Chou, S.C. et al. Climate change impact on the potential yield of Arabica coffee in southeast Brazil. Reg Environ Change 18, 873-883 (2018):コーヒー豆の収穫量の減少率
【大麦】
・FAO STAT(国連食糧農業機関のデータベース): 過去15年の国別平均収量
・Xie, W., Cui, Q., Ali, T. The Economic Impacts of Climate Change on Grain Production and Policy Implications: A CGE Model Analysis. In: Okuyama, Y., Rose, A. (eds) Advances in Spatial and Economic Modeling of Disaster Impacts. Advances in Spatial Science. Springer, Cham., 359-373 (2019): 大麦の収量変化予測

日清食品

参照 気候変動 | 日清食品グループ
日清食品は、物理的リスク評価において、気候変動による主要農産物収量の影響を概ね定量的に、収量減による財務影響の算定定性的に行っています。

物理的リスク(農産物)の評価結果

主要な原材料のうち、小麦、大豆、エビ、イカの調達に関わるリスクが日清食品グループの中長期的な成長を阻む可能性は少ないと判断しています。パーム油の調達にかかわるリスクが与える財務的影響は、日清食品グループの国・地域別のパーム油の調達比率を加えた上で今後算出すると述べています。

利用している科学的根拠

※各企業の開示情報をそのまま引用しています。


【小麦】
・農業・食品産業技術総合研究機構 “Responses of crop yield growth to global temperature and socioeconomic changes” における分析モデル
・USDA (米国農務省) “Climate Change and Agricultural Risk Management Into the 21st Century”
における分析モデル
【大豆】
・農業・食品産業技術総合研究機構 “Responses of crop yield growth to global temperature and socioeconomic changes” における分析モデル
【エビ、イカ】
・AO (国連食糧農業機関) “Projected changes in global and national potential marine fisheries catch under climate change scenarios in the twenty-first century. In: Impacts of climate change on fisheries and aquaculture, 63.” における分析モデル
【パーム油】
研究機関によるシミュレーションモデルが入手できなかったため、以下を用いていると述べています。
・IUCN, Oil palm and biodiversity, June 2018
・SEnSOR, Potential Impacts of Climate Change on Oil Palm Cultivation, December 2017

セブン&アイホールディングス

参照 TCFD提言への対応 | サステナビリティ | セブン&アイ・ホールディングス
物理的リスク評価において、気候変動による主要農産物収量の収量減による財務影響の算定を概ね定量的に行っています。

他3社とは違い、対象事業をセブン-イレブン・ジャパンの日本国内店舗運営、対象年2030年とするなど、シナリオ分析の前提を絞っていることに特徴があります。

また、物理的リスク評価にあたって影響が大きいと見込まれる「温暖化進行シナリオ(2.7℃~4℃)」のみのシナリオを参照した評価であることに注意が必要です。

物理的リスク(農産物)の評価結果

シナリオ分析の前提を、対象年2030年時点、気候変動により収量が低下したことのみによる原価上昇を試算し、事業に大きな影響があると判断しています。

利用している科学的根拠

収量の変化は、文部科学省環境省気象庁国立環境研究所農業・食品産業技術総合研究機構などのデータから試算したと述べています。

定性的評価から定量的評価へ

物理的リスク、特に気候変動の進行が農作物などの原材料調達に与える影響についての定量的な分析事例が限られている中でいくつかの先進事例を比較しました。そのうえで、企業が参考にできるいくつかのグッドプラクティスが抽出されました。

・シナリオ分析による算出した影響推定値の不確実性を踏まえつつ、なおシナリオを使用したレジリエンス評価の有用性を述べる
・年度ごとに調査を追加実施する
・毎年最新の学術論文を参照し情報をリバイスする
・影響評価にかかるデータが不足していた場合、どのようなデータが不足していたか開示する
・仕入金額の構成をもとに対象産物を算定する

食品・飲料メーカーなどでは、気候変動の影響で、自社の品質基準を満たした原材料を調達できなくなれば、事業への影響は避けられません。

一方で、自社ビジネスに対する影響が大きい特定の国・地域の農産物生産が、どのような影響をどの程度受けるのかといった具体的で定量的な情報を入手することは難しいという課題があると考えられます。

その際には、各先進事例のシナリオ分析における科学的根拠などを参考に情報を収集・分析し、定性的評価から定量的評価へと移行することができます。

TCFD提言の基本を学ぶ!

「なぜ今TCFDが求められているのか」から、「どんなプロセスで対応していけば良いのか」
までをご理解いただけます。

お気軽にお問い合わせください

シナリオ分析に基づく具体的な期待損害額を推計し、ステークホルダーに対して自社経営のレジリエント(強靭性)を示すことが重要です。

TCFDが日本で主流となるにあたり、評価機関からの高評価を得ることが業界関係なく求められることが予測されます。その際には、自社内で気候変動におけるリスクを実際に定量的に算出する際にどういったデータを収集するべきか、またはどのような算出方法で行う必要があるのかをしっかりと準備する必要があります。

算定方法やデータ収集にお困りの際は、ぜひとも弊社にご相談ください。

また、弊社では、『移行計画の策定』をはじめ、『SBT目標設定支援』『環境ビジョン策定』など、企業様のネットゼロ達成のためのご支援を行なっております。下記のバナーより、サービス資料をダウンロードいただくか、お気軽にお問い合わせください。

セミナー参加登録・お役立ち資料ダウンロード

  • TCFD対応を始める前に、最終アウトプットを想定
  • 投資家目線でより効果的な開示方法を理解
  • 自社業界でどの企業を参考にするべきか知る

リクロマ株式会社

当社は「気候変動時代に求められる情報を提供することで社会に貢献する」を企業理念に掲げています。

カーボンニュートラルやネットゼロ、TCFDと言った気候変動に関わる課題を抱える法人に対し、「社内勉強会」「コンサルティング」「気候変動の実働面のオペレーション支援/代行」を提供しています。

弊社コンサルタント 西家光一監修

2021年9月入社。国際経営学修士。大学在学中より国際人権NGOにて「ビジネスと人権」や「気候変動と人権」領域の活動を経験。卒業後はインフラ系研究財団へ客員研究員として参画し、気候変動適応策に関する研究へ従事する。企業と気候変動問題の関わりに強い関心を寄せ、リクロマ株式会社へ参画。

Author

  • 遠藤瑞季

    2022年10月入社。2020年より国際人権NGOにて「ビジネスと人権」の分野の活動に従事。在学中、国際労働機関(ILO)のインターンとしてリサーチ業務を経験。気候変動における企業の可能性に関心を寄せ、リクロマ株式会社へ参画。