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はじめに:気候変動から「自然資本」へ
2025年、世界最大の環境情報開示プラットフォームであるCDPは、2026年の質問書に「海洋(Ocean)」モジュールを追加することを正式に発表しました。これは既存の「気候変動」「水セキュリティ」「森林」「プラスチック」「生物多様性」に続く環境テーマ拡大です。
CDPのHead of OceanであるOliver Tanqueray氏は、「金融機関から海洋関連データへのmassive demand(膨大な需要)がある」と述べており、投資家の関心の高まりが今回の決定を後押ししていると説明しています。
「うちは水産会社ではないから関係ない」——そう考える企業担当者様もいらっしゃることと思います。今回のCDP海洋モジュールは、海運・水産業のみならず、製造業、化学、食品、IT企業に至るまで、広範なサプライチェーン全体に「海洋への責任」を問う性質を有しています。
1. なぜ今「海洋」なのか?
地球最大の生物圏と経済的価値
海洋は地表の70%を覆い、地球上の生物が生息できるエリアの99%を占める「地球最大の生物圏」です。その重要性は広さだけにとどまりません。
- 気候の調整役:人為的なCO2排出量の約25〜31%、追加的な熱の90%以上を吸収しており、気候変動の緩和に不可欠な役割を果たしています。
- 経済への寄与(ブルーエコノミー):OECD「The Ocean Economy to 2050」(2025年3月)によれば、海洋経済は年間2.6兆ドルの粗付加価値を生み出し、世界第5位の経済大国に相当する規模を持っています。1995年以降、実質ベースで2倍に成長しています。
- 国際貿易の基盤:UNCTAD「Review of Maritime Transport 2024」によれば、国際貿易の80%以上(重量ベース)は海上輸送によって支えられています。また、国際インターネット通信の98%は海底ケーブルを経由しています。
海洋が直面する「3つの危機」
一方で、この巨大な自然資本は今、深刻な危機に瀕しています。
- 気候変動:海水温の上昇や酸性化による生態系の破壊
- 生物多様性の喪失:乱獲や生息地の破壊による種の減少
- 汚染:プラスチックごみ、化学物質、栄養塩(窒素・リン)の流出による海洋汚染
WWF「Navigating Ocean Risk」報告書によれば、現状のシナリオでは今後15年間で8.4兆ドル相当の資産が海洋関連リスクに晒されると推計されています。
TNFDにおける「ミッシング・リンク」の解消
TNFDは自然を「Land(陸域)」「Ocean(海洋)」「Freshwater(淡水)」「Atmosphere(大気)」の4つの領域(Realm)で定義しています。
これまでのCDP質問書は「大気(気候変動)」「淡水(水セキュリティ)」「陸域(森林)」はカバーしていましたが、「海洋」に対応する包括的なテーマが存在していませんでした。今回の海洋モジュール追加は、この最後のピースを埋め、投資家が企業の自然資本リスクを体系的かつ網羅的に評価できるようにするための必然的な進化と言えます。
2. 既存CDP質問書との棲み分け
「水セキュリティ質問書やプラスチック質問書で海洋はカバーされていないのか?」という疑問をお持ちの方もいるかもしれません。結論から言えば、既存質問書では海洋固有の課題は対象外となっています。
水セキュリティ質問書の射程
CDPの水セキュリティ質問書は、おもに淡水資源(Freshwater)に焦点を当てています。具体的には以下の課題を扱います。
- 水ストレス(取水量と利用可能量のバランス)
- 淡水汚染(工場排水、農業排水)
- 流域管理(河川・湖沼・地下水の管理)
TNFDの定義に従えば、河川、湖沼、湿地は「Freshwater realm」に分類され、沿岸域、外洋、深海は「Ocean realm」に分類されます。河口域や汽水域は両者の移行帯として認識されますが、水セキュリティ質問書は基本的に淡水側の課題に焦点を当てています。
プラスチック質問書の射程
プラスチック質問書は、バリューチェーン全体でのプラスチックフローを対象としていますが、海洋プラスチック汚染に特化した指標は含まれていません。例えば以下の海洋固有の課題は対象外です。
- 海洋へのプラスチック漏出量の推計
- 海洋食物連鎖におけるマイクロプラスチック濃度
- 漁具(ゴーストギア)の流出・回収
海洋モジュールが埋める「ギャップ」
以下の表は、既存質問書とTNFDガイダンスのカバー範囲を整理したものです。
| 課題 | CDP水 | CDPプラ | TNFD |
| 海洋酸性化 | × | × | △ |
| 深海採掘 | × | × | △ |
| 海洋生物多様性 | × | × | ◎ |
| ブルーカーボン | × | × | ○ |
| 船舶排出・騒音 | × | × | ○ |
※TNFD は2025年6月に漁業・海運セクターガイダンスを公開済み。10月には海洋測定に関するコンサルテーションを実施
3. 対象企業は?(実は広い「当事者」の範囲)
「海洋」と聞くと漁業や海運業だけが対象と思われがちですが、今回の開示対象はそれよりも遥かに広範囲に及びます。
① 海洋を直接利用する事業
- 業種:漁業、養殖、海運、造船、洋上風力発電、海洋観光など
- 理由:海そのものを事業領域としており、海洋環境の変化が事業存続に直結するため
② 陸上活動を通じて海洋に影響を与える事業
- 業種:農業、食品、化学、製薬、アパレル、建設、不動産、廃棄物管理など
- 理由:工場排水、農地からの肥料流出、プラスチック廃棄、沿岸開発などを通じて、陸上活動が海洋汚染や生態系破壊の主要因となっているため
③ サプライチェーンを通じて海洋と関与する事業
- 業種:小売、商社、IT(データセンター)、化粧品、通信など
- 理由:海洋由来原材料の調達、海底ケーブルへの依存、海水冷却の利用、製品の海上輸送など
見落とされがちな「海洋への依存」
特にサプライチェーンを通じた海洋への依存は見落とされがちです。以下に具体例を挙げます。
- データセンターの海水冷却:Microsoftの「Project Natick」は海底にサーバーを設置し、サーバー故障率を陸上施設の8分の1に低減。Googleのフィンランドデータセンターは海水冷却により冷却エネルギーをゼロ化。従来のデータセンターは消費電力の最大40%を冷却に使用しており、海洋アクセスの価値が高まっています。
- 海底ケーブル:世界の大陸間データ通信の95〜99%は約485本の海底ケーブル(総延長150万km)を経由。1990年以降、約480億ドルが投資されています。国立海洋学センターの研究では、2100年までに6,500km以上のケーブルと1,100以上の陸揚げ局が海面上昇・高潮の影響を受けると予測されています。
- 海洋バイオテクノロジー:海洋生物から20,000種以上の生理活性化合物が創薬研究に活用されています。海藻は年間5,000万トンが収穫され、食品・化粧品・バイオ燃料・医薬品に使用。市場規模は2024年の67億ドルから2034年には133億ドルへの成長が予測されています。
- 沿岸保護サービス:サンゴ礁は波のエネルギーを最大97%減衰させ、世界で530万人と1,090億ドル相当のGDPを保護。マングローブはメキシコ、フロリダ、バハマで年間170億ドル以上の洪水被害を防止しています。
4. CDP海洋質問書の想定構成とTNFDとの整合性
新設される海洋モジュールは、TNFDの提言と強く整合するように設計されると想定されます。TNFDは4つの柱・14項目の推奨開示を定めており、これがCDP海洋モジュールの骨格となる見込みです。
① ガバナンス(Governance):3項目
- A:取締役会の監督体制
- B:経営陣の役割
- C:先住民・地域コミュニティ・ステークホルダーとのエンゲージメント
解説:気候変動同様、海洋リスクも経営課題としてトップマネジメントが関与しているかが問われます。「環境部門任せ」ではなく、経営戦略の一部として位置づけられているかがポイントです。
② 戦略(Strategy):4項目
- A:短期・中期・長期の依存・インパクト・リスク・機会の特定
- B:ビジネスモデル・バリューチェーン・戦略・財務計画への影響
- C:シナリオ分析を踏まえた戦略のレジリエンス
- D:優先ロケーションの開示(TNFDの重要な特徴)
解説:TNFDの特徴である「地域性(Locality)」が重要です。どの海域で、どのような活動を行っているか、その場所の生態系重要度はどうか、といった地理的文脈を考慮した戦略開示が求められます。
③ リスク及びインパクト管理(Risk & Impact Management):4項目
- A(i):直接操業における特定・評価・優先順位付けプロセス
- A(ii):上流・下流バリューチェーンにおけるプロセス
- B:依存・インパクト・リスク・機会の管理プロセス
- C:全社リスク管理プロセスとの統合状況
解説:単にリスクを認識するだけでなく、それをLEAPアプローチ等でどのように特定・評価・優先順位付けしているかという「プロセスの開示」が重視されます。LEAPとは Locate(接点の特定)→ Evaluate(依存・インパクトの診断)→ Assess(リスク・機会の評価)→ Prepare(対応・報告の準備)の4段階アプローチです。
④ 指標と目標(Metrics & Targets):3項目
- A:リスク・機会の評価・管理に使用する指標
- B:依存・インパクトの評価・管理に使用する指標
- C:目標とそれに対するパフォーマンス
定性的な宣言だけでなく、定量的なKPI(重要業績評価指標)の設定とモニタリングが不可欠です。例えば、排水放流量、海洋由来高リスク原料調達量、認証水産物比率などが想定されます。
5. 金融セクターへの影響:ポートフォリオに潜む海洋リスク
海洋モジュールの追加は、事業会社だけでなく金融機関にも大きな影響を与えます。
Ocean 100:海洋経済の集中リスク
Duke大学の「Ocean 100」研究によれば、100社の多国籍企業が海洋経済収益の60%(1.9兆ドル中1.1兆ドル)を占めていることが明らかになっています。これは投資家にとってポートフォリオリスクの集中を意味します。
- オフショア石油・ガス:Ocean 100収益の65%(8,300億ドル)を占有
- コンテナ海運・クルーズ観光・港湾:上位10社で各セクター収益の82〜93%を占有
グローバル上場企業の66%が海洋リスクに晒されている
WWFの報告書によれば、グローバル上場企業の66%が海洋関連のバリュー・アット・リスクに晒されています。
- 現状シナリオ(BAU):今後15年で8.4兆ドルの資産がリスクに直面
- 2℃シナリオ:3.3兆ドルの損失
- 持続可能な移行:現状比で5.1兆ドルの損失回避が可能
拡大するブルーファイナンス市場
ブルーボンド(海洋保全目的の債券)の累計発行額は2024年7月時点で72億ドルに達しています。サステナブル債券全体の0.24%に過ぎませんが、3年連続で前年比成長を続ける唯一のカテゴリーです。2018年のセーシェル初のソブリンブルーボンド以降、Saurグループ(€5.5億)、DPワールド(中東初)など発行が拡大しています。
UNEP FI「Sustainable Blue Economy Finance Initiative」には、BNPパリバ、アビバ・インベスターズ、アジア開発銀行、ラボバンクなど80以上の機関(運用資産11兆ドル超)が参加し、水産、港湾、海運、海洋再生可能エネルギー、沿岸観光、海洋汚染に関するセクターガイダンスを公開しています。
6. これから海洋関連の分析を実施する企業に求められる対応
CDP海洋質問書への回答、ひいてはネイチャーポジティブ経営の実現に向けて、企業は具体的に何から始めるべきでしょうか。
STEP 1:バリューチェーンの「海洋接点」の特定
まずは自社の事業活動が、どこで、どのように海とつながっているかを把握します。直接的な利用だけでなく、「上流の原材料調達」や「下流の製品使用・廃棄」における接点を見落とさないことが重要です。
- 海洋由来原材料(魚油、海藻、貝類など)の調達ルート
- 海上輸送への依存度(サプライチェーン全体での物流経路)
- 排水・廃棄物の最終到達先(河川を経由した海洋への流入)
- 沿岸インフラへの依存(港湾、海底ケーブル、海水冷却など)
STEP 2:TNFD「LEAPアプローチ」に沿った分析の実施
いきなり全社展開が難しい場合は、特定の商品や事業所に絞ってLEAPアプローチを試してみることをお勧めします。
- どの海域に依存しているか?
- その海域のストレス状況は?(乱獲、汚染、温暖化等)
- 自社の排水や廃棄物が与えるインパクトは?
これらを体系的に整理することで、自社のリスク管理の欠落部分が見えてきます。
STEP 3:部門横断的なタスクフォースの組成(Governance)
海洋問題は、調達(原材料)、製造(排水・廃棄物)、物流(輸送)、サステナビリティ(開示)など、多部門にまたがる課題です。気候変動対応と同様に、部門横断的なプロジェクトチームを立ち上げ、データを一元管理できる体制を整える必要があります。
おわりに:リスクを「機会」に変えるために
CDP海洋モジュールの追加は、企業にとって「回答負荷が増える」というネガティブな側面だけではありません。
海洋リスクを可視化し、適切に管理することは、将来の資源枯渇リスクを回避し、サプライチェーンの強靭化につながります。さらに、環境配慮型の製品開発や、ブルーエコノミー市場への参入など、新たなビジネスチャンスを掴むきっかけにもなり得ます。
CDP2026年の開示サイクルは、2026年6月に回答受付開始、9月にスコア対象の締切、11月末にスコア公開という日程が予定されています。質問書の詳細は2026年4月に公開予定です。
投資家の目は確実に「脱炭素」から「自然資本全体(気候+自然)」へと広がっています。TNFDが「海洋関連課題の測定にはさらなる明確化と一貫性が必要」と認めているように、早期に取り組む企業こそがベストプラクティスを定義する側に立てるのです。
当社では、CDP回答支援をはじめ、TNFD対応、バリューチェーン全体のリスク評価など、企業のサステナビリティ推進をトータルでサポートしております。海洋モジュールへの対応にご不安がある場合は、ぜひお気軽にご相談ください。
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参考文献
[1]CDP 「CDP Disclosure 2026」
[2]OECD「The Ocean Economy to 2050」(2025年3月)
[3]Science Advances「The Ocean 100: Transnational corporations in the ocean economy」
[4]TNFD「Guidance on the LEAP approach」(Version 1.1, 2023年10月)
[5]TNFD 「Additional sector guidance – Marine transportation and cruise lines」(2025年6月)
[6]UNCTAD「Review of Maritime Transport 2024」 (2024年7月)
[7]UNEP Sustainable Blue Economy Finance Initiative「Sustainable Blue Finance Mobilising Capital for a Sustainable Ocean」
[8]WWF「Navigating Ocean Risk: Value at Risk in the Global Ocean Economy」
お役立ち資料
CDP(気候変動質問書)とは?
【このホワイトペーパーに含まれる内容】
・CDPの概要やその取り組みについて説明
・気候変動質問書の基本情報や回答するメリット、デメリットを詳細に解説
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